1.息が、つまるほど

偶然と言うのは意外に簡単に起こるものだ。特に期待していない時は、尚更。

「あんた、何しとるん」
買出しのために街中を歩いていたコーディットは、人ごみの中で強く腕を引かれ、そう問われた。痴漢だと思い、咄嗟に跳ね除けようとしたが、相手の顔を見た途端に視線が釘付けになる。

『まさか、そんな。これは夢ですか?』

相手の顔を突きまわすように眺める。
間違いない。紛うことなく、コーディットが密かな甘い想いを抱いている、カヲル、その人だった。

まったく、彼らの一行がこの街に来ているという話は、間諜からも入っていなかった。むしろもっと北の町に向かうところを目撃した、という伝達があったくらいだ。
じゃあ今日は休暇と言うことで、とデルタが宣言し、街を回りたいというアリティシアの要望から、二人で連れ立ち市内見物をしていた。けれど、さっきコーディットが露店に気を取られている間に、アリティシアはずんずんと先に進んでしまっていたようで、姿を見失ってしまった。人ごみの中をどれだけ見渡しても、あの特徴的なピンクは欠片ほども目に映らなかった。
暫く探してみたが、この人ごみでは見つかるはずもなく、仕方なく宿屋に戻ろうとした矢先の出来事。偶然この男と顔を突き合わせてしまったのである。

カヲルの柔らかそうな茶色の髪が揺れる。無造作に整えられた髪、丸みを帯びた目、その顔の造形ひとつひとつが、親しみやすくて優しげな印象を他人に与えている。
けれども、繊細そうに見えたその指も腕も、間近で見ると意外と大きかった。掴まれて引かれた腕が少し痛くて、その強い力を思い出す。その腕に身を委ねたい、とそんな考えが浮かんだことに気付き、はっと我に返って彼の顔を伺った。

お洒落で小さな銀縁の眼鏡の奥から覗く瞳は、怪訝そうな色を湛えていた。その視線に射抜かれている自分の顔は、朱に染まっているに違いない。彼の手が触れている部分がとても熱い。それは、彼の手のひらの体温だろうか、それとも。その熱がじわりじわりと広がって、心臓まで侵食しているような錯覚を起こす。だから、きっと、こんなにも心臓が跳ねているんだ。ふわりふわりと甘くて蕩けるような感情が全身にまわって、あたまを、からだを、痺れさせる。

どうしよう。どうしたらいいの。

耐えられない程の想いが器いっぱいの水のごとく溢れ出しそうだ。もうこの感情を塞き止めることは限界かもしれない。

確かに、この男とコーディットは敵同士だ。それは分かっていた。
しかし、今日は休暇である。コーディットは、組織のしがらみなんてない、ただの一人の少女だ。普段二人の間を阻んでいる石壁のような理性は、今日は絹のように柔らかく、押せばコーディットの思うとおりに形を変えてしまうようなものだと感じた。

息が、詰まるほどに、心に積もらせてきた想いが、体の中をぐるぐると駆け巡っている。
それを深呼吸と共に飲み込むと、コーディットは震える唇を開いた。




(C)芝


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