1.とらわれる


真っ暗な廊下を走りぬけ、光が細い筋となって伸びている扉へと走り寄る。勢いよく扉を開けると、飛び切りの笑顔で部屋の主に話しかける。

「エマーシャ〜!お仕事、終わったわ!早く寝室にい・き・ま・しょ♪」
「プリメイラ、仮にもここは王の執務室だぞ?ノックぐらいしなさい。出禁にするよ?」
エマーシャは、ペンを置くと、呆れたように私を窘めた。長く伸ばした前髪に隠れた瞳が、鋭く私を見つめる。
私のせいで困るその顔が見たいのだ。だから、言うことを聞く気はない。
「エマーシャ、今日の分はまだ終わってない?まだ寝られない?」
背中にくっついて仕事を覗き込む。
「まだだよ、プリム。もう少しかかる」
エマーシャは伸びをする振りをして私を肩から退ける。私を傷つけないように、とのさりげないその優しさ、少し寂しいような気もする。

「あー、明日は休みにしたい、外に出たい、疲れたー」
エマーシャは椅子に背を預けると、手足をじたばたする。国の王であるエマーシャが、駄々っ子のような姿を見せる。
子供のようなこの仕草は、エマーシャ自身はそれほど深く考えていないだろうけれど、私にとってとても嬉しい行為だ。別に私のことが邪魔ではないんだ。むしろ、一人で居る時よりきっと安らいでいる。
「あっ、また街に行くつもりね?ダメよ、ダメダメ、まだ仕事が残ってるじゃない、山のように!」
実際、机だけでは収まりきらず、仕事は山になって床に置かれている。これでは暫く終わりそうにもない。

ま、私が邪魔したり、こっそり必要のない仕事までさせてるから終わらないんだけどね。

仕事を足かせにして、とらえておかなければ、エマーシャは勝手にさっさとどこかへ行ってしまう。
机の方に振り向くと、いつの間にか子供・モードは影もなく消え、出来る・女・モードに入っていた。切り替えが早い。もう少し戯れていたいと思っているのは私だけのようだ。

あーあ。エマーシャは結局、私に対する未練とか愛着とか、そういうものは一切ないんだわ。
少し切ないけれど、仕方ない。エマーシャはそういう人だから。ソファに身を投げると、濃緑の生地が跳ねる。ぎしぎし言うのが収まってから、一つ大きな欠伸をする。

仕方ないか、明日は少し仕事を減らしてあげよう。そして、お忍びで街に行くのを見届けて、ストーキング。これで決まり。

「プリメイラ。コーヒー」
エマーシャが仕事を高速でペンを走らせながらそう言った。
「えぇ、またぁ?エマーシャ、そんなにコーヒーばっかり飲んでたら、胃の中真っ黒よ?消化機能が低下しても知ーらなーいわよー」
10分前に召使を呼んで、コーヒーを持ってこさせていたのはチェック済み。確かに眠気のお供はコーヒーだけど、だからと言ってそんなに飲んでいては体に悪い。
けれど、私もコーヒーが飲みたいところだ。あの苦味が無いと、今はちょっとやりきれない。苦い気分には、苦い飲み物を。溜息をついて立ち上がると、扉に向かう。
「仕方ないわね、じゃあ、ちゃっちゃと召使を呼んでー…」
「プリメイラが淹れてくれるんじゃないのか?」
その言葉に少し驚いた。エマは相変わらず書類と睨み合っていて、表情は分からない。今の言葉、つまり…私に淹れて欲しい、ということなのか。珍しい。
素直に淹れて上げてもいいんだけど、ちょっと本意を知りたい。
「私に淹れて欲しいのね、エマーシャ?」
ちょっと嫌味な言い方だったかな。でもいいじゃない、エマーシャはいつも意地悪な物言いしかしないんだもの。お返しよ、お返し。でも、すっごく嫌な顔するんだろうな。
「淹れて来い、プリム。プリムのコーヒーがいい」

ほら、命令口調で、顔を上げて…微笑を湛えて…って、えええっ!エマーシャが笑ってる!しかも「ふっ」っていう冷笑じゃなくて、普通に!超レアよ、レア!

私の心は言葉にならない驚きを抱えて、思わず舞い上がってしまう。鼓動が早い。

そこから記憶が飛んで、気付けば給湯室に来ていた。
先ほどの笑顔を心に焼き付けるように何度も何度も思い返す。何故あんな笑いをしたんだろう、疲れていたから?
あの笑い顔は反則だよ。心臓が止まりそうだった。

やっぱり明日は仕事を減らしてなんかあげない。
疲れ切っていたら、コーヒーを淹れてあげるわ。
そしたら、また笑うかしら。
あの笑顔がある限り、あなたを放してあげられそうにないわ、エマーシャ。



(C)芝


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